今帰仁城跡・伝説に見る今帰仁城

今帰仁グスクの物語は多く、旧家に残る家譜(かふ)や野史として伝えられています。物語の中で史実とは考えられない部分もあることなどから伝説として今に伝えられています。

築城物語 ~北谷なーちらー~

今帰仁城は固い黒石で城壁を築き上げる堅固な城として知られていました。しかし、この堅い黒石をけずるのが大変で工事がなかなかはかどりません。そんな折に北谷村に奇怪(きかい)な妖刀(ようとう)「北谷なーちらー」という極めて切れ味の鋭い刃物の噂が国中にひろまりました。

「北谷なーちらー」で石を切るイメージのイラスト

この刀を振ればなんでも二つに切れ、魔力のある包丁として話題となりました。石切り工事に大変苦労をしていたため、「そんなに切れるのなら石けずりに使いたい」と今帰仁城に献上(けんじょう)させました。これをもってすればまるで豆腐でも切るようにスパッと切れるので、思うとおりに丈夫な石垣ができあがったとされます。石垣にノミ跡が無いのはこの「北谷なーちらー」のおかげとされています。後に尚家の家宝として大切に伝えられました。

北山騒動

北山に若按司が生まれてすぐに国頭地方で謀反(むほん)が起こったという噂が流れました。武勇のほまれ高い家臣(謝名大主、潮平大主などの説がある)がこれを打つべく出発します。しかし、これは重臣の本部大主が手ごわい家臣を外に追い出して城を乗っ取ろうとする策だったのです。

若按司の誕生祝の宴(うたげ)が開かれるところへ、本部大主が軍勢で流れこみます。国頭から引き返した家臣に助けられ辛くも逃げのびましたが敵に追いつかれそうになりました。そこで王妃は「産後でこれ以上歩けません、この子を頼みます」と言って乙樽(うとうだる)と家臣へ若按司を預け志慶真川へ身を投げてしまいました。家臣は乙樽を励まし、ようやくクバの御嶽(うたき)の岩屋にかくれ朝を待ち、恩納(おんな)の忠臣(ちゅうしん)山田大主を頼り逃げ延びます。

若按司が山田大主のところで8歳になった時、城主となった本部大主が討手を差し向けたという噂が流れたので、若按司は名を岡春と改め北谷間切の砂辺村へ落ち延び下人奉公しながらチャンスが来るのを待ちました。それから10年後、ようやくその時が来ます。大宜味で旧臣たちが集まって旗揚げし準備した事を知り、若按司は勘手納港(かんてなこう)に旧臣を集め3千の大軍を旗揚げします。この勢いに城中の兵は戦意を失い城は落ちました。身を潜めていた乙樽も城内に駆けつけます。後に乙樽は忠誠と情けの深さに「神人」の位を授かりました。

宝剣千代金丸 ~受剣石~

宝剣千代金丸を右手で構える北山王攀安知のイラスト

北山王攀安知(はんあんち)は己の武勇にものを言わせ富を集めていましたが国頭、名護、羽地の諸按司たちは不満を募らせていました。やがて、佐敷の尚巴志(しょうはし)が台頭1416年、尚巴志の連合軍と攀安知は合戦を交えます。しかし、屈指の堅城で攻めあぐんでいたためにらみ合いとなりました。そこで尚巴志は城中の大将で欲深い本部平原にワイロを贈り謀反を企てるよう誘いました。

翌日、本部平原は攀安知に「攻撃に出て、王は表、私は裏の敵を追い散らしましょう」と誘い、これを計略と知らず攀安知は尚巴志の軍勢を深追いします。やがて、城中から火の手が上がるのを見てあわてて引き返すと本部平原が城門で「わが手に討たれよ」と叫び一騎打ちとなりました。怒り狂った攀安知は先祖伝来の宝刀「千代金丸」で本部平原を斬り殺し、もはやこれまでと城の守護神カナヒヤブの霊石を切りつけ返す刀で切腹をしようとしました。しかし、これが切れなかったため志慶真川に投げ捨て、腰の小刀で切腹して果てました。後に千代金丸は志慶真川から拾われ尚家に献上、天下の至宝として大切に保管されました。

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更新日:2024年01月04日