今帰仁城跡・山北の滅亡

山北の滅亡は1416年(一説では1422年)とされます。『球陽(きゅうよう)』や『中山世譜(ちゅうざんせふ)』によると、攀安知(はんあんち)は武勇にすぐれ淫虐無道(いんぎゃくむどう)であったとされ、その家来の本部平原(もとぶていばら)も極めて力があったといわれます。その軍も勇剛驍健(ゆうごうぎょうけん)で、また城も甚だ険阻で攻撃しにくく、攀安知と平原は中山を攻めることを計画し兵や馬を整えていました。そのことを羽地按司(はねじあじ)が中山の尚思昭(しょうししょう)に伝え、兵を先に動かして攻めることを進言したとされ、続いて国頭按司(くにがみあじ)、名護按司も同様なことを告げ、尚思昭は世子の巴志(はし)に命じて山北を攻めさせたと言われています。つまり、山北側の国頭按司、名護按司、羽地按司は中山軍に組して今帰仁城に攻め入ったのです。

山北と他勢力との関係図

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更新日:2020年10月19日