今帰仁城跡・今帰仁城監守
監守(かんしゅ)の設置
1422年尚巴志(しょうはし)は第二子の尚忠を山北監守として今帰仁城に派遣します。監守派遣の理由は、城が首里より遠いため、地は険阻で、人は驍健(ぎょうけん)であるため、反乱を起こす恐れがあるためなどとされています。後年の1429年に山南も中山に滅ぼされますが山南には監守制度を設置しませんでした。そこに山北と山南への対応の違いを見ることができます。今帰仁城に設置された監守は、第一尚氏王統の時代と第二尚氏王統の時代に分けることができ、前者を第一監守時代、後者を第二監守時代と呼びます。
尚円王(しょうえんおう)が即位し、第二尚氏王統を樹立(じゅりつ)すると、しばらく大臣を交代で山北監守として派遣します。1526年になると各地の按司を首里に集居させますが、今帰仁城には例外として尚真王の第三子の尚韶威か派遣され1665年(七世従憲)まで継がれました。
運天港にある大北(ウーニシ)墓は別名按司墓とよばれ、第二監守時代の監守(今帰仁按司、今帰仁総地頭職)を勤めた按司と、その一族が葬られています。また、三十三君職の一つである阿応理屋恵按司を勤めた三人も葬られています。一世の尚韶威(今帰仁王子、みやきせんあんしまもたいかね)は、首里の玉陵に葬られ、三世の和賢(わけん)は一族とは別の今泊の津屋口墓(別名アカンバカ)に葬られています。八世からは『具志川家家譜』によると末吉の墓に葬られているとされます。1665年七世従憲が首里に引き揚げた翌年に今帰仁間切を分割し伊野波(いのは)間切を創設(1667年に本部間切と改称)した。これまでの今帰仁間切は二分されます。
第一監守
初代 尚忠
(在位:1391年~1444年)(享年53歳)『中山世鑑』や『球陽』などの史書によれば、尚巴志の第二子の尚忠に山北を監守させている。尚忠は後年3代中山王に即位した。
不明
1440年~1469年に監守の役職についた人物については具体的な資料に乏しく不明な点が多い。『補遺伝説冲縄歴史』では尚忠の弟具志頭王子が継いだとされるが定かではない。
第二監守
一世 尚韶威
(?年~1500年代半ば頃)父尚真によって山北監守として派遣。今帰仁間切総地頭職。玉陵には「ミやきせんのあんしまもたいかね」と碑に記される。
二世 向介紹
(?年~1570年頃)童名は思二郎金。父の跡を継いで今帰仁間切総地頭職となる。四男一女に恵まれ、大北墓に葬られる。
三世 向和賢
(1557年~1591年)(享年35歳)童名は真牛金。父の跡を継いで今帰仁間切総地頭職となる。若くして亡くなり第二監守では例外的に津屋口墓に葬られる。
四世 向克順
(1580年~1596年)(享年17歳)童名を真満刈[金]。父の跡を継いで11歳の時に今帰仁間切総地頭職となる。生涯独身で、お墓は大北墓。
五世 向克祉
(1582年~1609年)(享年28歳)童名は思二郎金。父の跡を継いで14歳で今帰仁間切総地頭職となる。大北墓に葬られる 。死去年は薩摩入りのその年。
六世 向縄祖
(1601年~1658年)(享年58歳)
童名を鶴松金。父の跡を継いで8歳で今帰仁間切総地頭職となる。伊野波在番勤務。親泊に移り住む。お墓は大北墓。
七世 向従憲
(1627年~1687年)(享年61歳)童名思五良。 27歳で今帰仁間切総地頭職を継ぎ、39歳~48歳まで運天在番勤務。この頃首里への引き揚げ、今帰仁間切が伊野波間切りとに分割される。
八世 向洪徳
(1652年~1691年)(享年40歳)23歳で今帰仁間切総地頭職を継ぎ、 28歳で鳥小堀矼普請総奉行、32歳で西之平等の夜回り主取を努める。八世の代から墓は西原間切末吉村となる。
九世 向鳳彩
(1674年~1724年)(享年51歳)17歳で今帰仁間切総地頭職を継ぎ、 35歳の時尚貞王逝去の使者として鹿児島へ赴く。 宗門手札改奉行(47歳)、西之平等の大輿頭(49歳)などを勤める。
十世 向宣謨
(1702年~1787年)(享年86歳)22歳で今帰仁間切総地頭職を継ぎ、53歳で国相となり、監守来歴碑の建立など功績も数多い。45歳で今帰仁王子の位を賜る。
十一世 向弘猷
(1756年~1809年)(享年54歳)14歳で今帰仁間切総地頭職を継ぎ、31歳の時薩州よりの使者を接待。御系図奉行(47歳)などを勤める。52歳で今帰仁王子の位を賜る。
十二世 向鴻基
(1775年~不明)
34歳で今帰仁間切総地頭職を継ぎ、41歳の時向邦輝を名乗り英船艦長バジル・ホールと会見。西之平等惣横奉行(55歳)などを勤める。
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更新日:2024年01月04日